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関東学院創立141周年記念式典 学院長メッセージ(学院長 松田 和憲)

10月11日、関東学院大学 横浜・金沢八景キャンパスのベンネットホールで関東学院創立141周年記念式典を執り行いました。当日の記念式典における学院長メッセージ(全文)を掲載いたします。



「平和のチャンピオンたれ」ヨハネ16:25-33、マタイ5:9  学院長 松田 和憲

本日、学院創立141周年記念式を執り行い、皆さまとその喜びを分かち合うことができますこと、感謝します。今日のお話のタイトルは「平和のチャンピオンたれ」とさせて頂きました。これは坂田祐先生の言葉だと言われていますが、その出所は何処なのか、また先生はどんな思いを込めて語ろうとされたのかを尋ね、それと聖書の言葉を関連付けて、わたしなりに受け止めた事柄をお話ししたいと思います。
まず、出所ですが、「関東学院百年誌(1984年)」において、小見出しが「関東大震災と第一回卒業式」との箇所に記されていました。ここですぐ坂田先生の言葉を紹介する前に、先生がいつ、どんな状況で語られたのか、少しお話ししたいと思います。これは坂田先生が1919年4月、三春台に中学関東学院を創設してから4年目の1923年(大正12年)9月1日に関東大震災を経験し、翌年の1924年3月9日、第1回卒業式において「告辞」として語られた言葉の一節です。震災によって、天下に誇った美しい校舎も一瞬のうちに崩壊して一切の設備も失い、先生と苦楽を共にしてきた3名の教職員が校舎の下敷きになり、教職員住宅も全焼し、教職員は飲まず、食わずの状態で学校復旧のために奔走したのです。一方、生徒たちの消息については総数546名中、死亡者3名、生死不明のもの30名と報告されていますが、それでも、一カ月半後、学校として授業を再開しています。何処で授業を再開したかといえば、捜真女学校の校舎をお借りしてのことでした。午前中は捜真の生徒さんたちが授業を受け、そして関東学院の生徒たちは午後から捜真の校舎をお借りして授業を行ったと記されています。そして、坂田先生が理事会の議を経て、仮校舎建設に着手して間もなく、翌年1月15日、再び激しい地震に見舞われ、仮校舎も崩れ落ちてしまい、度重なる災難を受けたのです。それでも、坂田先生は直ちに復旧工事を施され、この仮校舎を何とか蘇らせ、2月29日から最高学年5年生の授業を新装なった仮校舎で行い、そして、3月10日、捜真女学校の講堂をお借りして、第一回卒業式を挙行し、その式での坂田先生の「告辞」の「結び」の言葉の一節として語られた言葉であったのです。
その「告辞」の中で、先生はこう語っておられます、
「…わが国は戦争に勝つことをもって世界に誇っているが、武力では世界文化に貢献することはできない。人道上の貢献もできない。願わくばわが国に人道上のチャンピオンが生まれることである。願わくば、諸氏(君たち)そのチャンピオンになれ。関東学院の丘から人道の兵士、君たちの帽章の橄欖(オリーブの葉)が象徴する平和の戦士が多く出ずることを願ってやまない次第である。」
たいへん格調高い言葉ですが、ここで坂田先生がどんな意味合いで「平和のチャンピオン」とおっしゃったのか、少し思いを巡らしたいと考えた次第です。通常、わたしたちが「チャンピオン」とは、その筋の「第一人者、優勝者、あるいはナンバーワンの人物」を指して言う場合が多いので、坂田先生が「君たち、平和のチャンピオンたれ」と語られたのは何を意味するのか、しばし思案させられたことでした。
そんな折、大江健三郎氏のエッセイ集「新年のあいさつ」の中で、「チャンピオンの定義」という興味深い文章があるのを思い出しました。著者の大江健三郎氏が高校一年生の時、兄さんから英英辞典「コンサイス・イングリッシュ・ディクショナリー」をプレゼントされ、それからは食事をとるのも忘れるほどにこの辞典を読み親しんだそうです。しばらくして、兄さんが健三郎氏に「何か面白い説明見つけたか、新しい単語というより、今まで知らなかった単語の説明書きの発見はあったか、あったなら言ってごらん」と尋ねてきたというのです。そこで、彼は「チャンピオンという語の説明書きに興味を持った」と答えたそうです。彼が答えたのは、普通我々が考える「チャンピオン」の意味ではなく、「ある人のために替わって戦う人、あるいは、ある主義主張のために他者に替わって意志を貫く人のことを指すんだね。僕はこれまで、チャンピオンという言葉から、大切な役割を他者に替わって担う人などと考えもしなかった。しかしこの説明に何かしっくりするものを感じる」と語ったというのです。これだけでもいい話だと思いましたが、話はそれで終わりませんでした。それから40年間、兄弟同士ではこのことについて一度も話し合ったことはなかったそうですが、40年経って、兄さんが亡くなって間もなく、兄さんの親しかった友人から電話をもらい、その友人が癌で亡くなる直前の兄さんの病床を見舞った際に、二人で来世のこと、魂の救いなどについて気構えができているかなどと率直に話し合ったといいます。話が佳境に入ったとき、兄さんは「それは弟に聞いてください。あれがわたしのチャンピオンですから」と答えたというのです。そのことを聞いて、健三郎氏は、お兄さんが40年前に自分と交わした「チャンピオン」の定義についてずっと覚えていたということに驚きを覚え、そして「チャンピオン」の意味、すなわち、「自分に替わって戦う人」また「大切なことを他の人の代わりに行う役目も持つ人」という意味を味わい、改めて、兄さんが残してくれた言葉を大切にしたいと考えたということでした。
これで大分、坂田先生が語らんとされた「平和のチャンピオンたれ」という意味が明らかになって来たと思いますが、わたしはさらに、中居京(なかいたかし)先生と坂田先生が交わされた言葉を見つけ、なお一層、その意味が分かったような気が致しました。
中居京先生といえば、かつての大学神学部部長であり、商工高等学校校長であられ、多くの学生たちに慕われた先生であられたと聞いておりますが、その中居先生の書かれた文章は、坂田先生の著書『恩寵の生涯』の末尾に「坂田先生を偲びて」という欄に記載されていました。中居先生は坂田先生との個人的な繋がりやエピソードを紹介されたあと、たいへん興味深い、お二人の遣り取りについて記しておられます。そのくだりは以下の通りです。
「坂田先生は、九十二歳・翁坂田祐と署名された色紙に「和」の一字を残して逝かれた。これに関して思い出すことは、数年前のある日、私は先生に向って「かつては卒業生を送る度に『諸君は人道の戦士たれ、よろしく平和のチャンピオンたれ』との言葉を校訓に加えて話されましたが、最近は言われませんね」と話したところ、先生は「君の言う通りだ。平和の叫びは常に必要だ。だが社会と国と世界で、人を傷つけ殺すことが平然と行われている現実では、聖書の中に学ぶキリストを通じての神の和らぎ(平和)が個人と社会の中に徹するまでは、容易に平和は来ない。ただ私共は神の御心に従い神の厳粛なる経綸を信じつつ希望をもってそのことのために努める外はない」と、凡てを全能者の御手に委ねまつる平安と確信をもって語られたのであった。」
中居先生の書かれた文章を読んで、いかに坂田先生が、平和に対する厚い想いを抱いておられたかを改めて知り、わたしが日頃、学院の目指すキリスト教教育の根幹部分に、平和を創出する人間を育てるという姿勢の大切さを痛感しておりましたので、たいへん意を強くした次第です。
わたしは、この「チャンピオン」という名の持つ新たな意味、即ち、「他者のために替わって戦う人」「大切なことを他者の代わりに担う人」ということを考えた時、「平和のチャンピオンこそ、それを体現された、主イエス・キリストご自身である」と思い、今日、司会者に読んで頂いた、ヨハネ16章の主イエスの告別説教の最後の部分を選ばせて頂きました。これは主イエスが十字架に掛かられる直前、弟子たちに向けて語った告別の言葉です。主イエスは弟子たちに対して、縷々語られた後、こう語られます、「これらの言葉を話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(ヨハネ16:33)」と語られたのです。わたしは、いつもこの主イエスの言葉に力づけられ、勇気づけられています。何故なら、主イエスは「あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と語っておられるからです。勇気を必要としない人などいないのではないでしょうか。どんな時にも、自分を失わず、自分自身を保つためには勇気が必要です。わたしたち、時には不愉快なことを経験し、傷つけられ、心が萎えてしまいそうになることがあります。しかし、それに耐えて明るく生きるためには勇気が必要です。今の時代、決して明るい時代だと言えません。物価高騰の中、失業者が増え、凶悪犯罪が多発し、パンデミック後遺症で悩み、テロリズム、ポピュリズムのもと、不条理なこと、不可解なことがそこかしこに起こり、そうした中で、勇気を持つことの困難さを味わっております。そのように、イエスは、この世で数多くの悩み、苦難、苦しみがあることを重々知りつつ、「しかし、勇気を出しなさい」と語っておられます。しかも、その裏付けとして「わたしはすでに世に勝っている」からだと語られるのです。多少、専門的な説明になってしまいますが、主イエスの「わたしはすでに世に勝っている」との宣言は、十字架と復活を目前にして、それを予見しながら語られた言葉です。主イエスご自身が戦われ、また弟子たちを苦しめ人間すべてを苦しめているこの世の諸悪の力が、最も凶悪な姿を示す十字架においてこそ、その最後の息の根を止められるという事実に目を注ぎながら、「わたしはすでに世に勝っている」と語っておられるのです。これは、主イエスご自身の勝利であって、決して弟子たちの勝利でもなければ、わたしたちの勝利でもありません。もちろん、主イエスが戦われた、この世の諸悪と戦う力など、弟子たち、そして、わたしたちにもありません。しかし、主イエスが獲得される勝利は、決してイエスご自身だけの勝利でないことをわたしたちは知っています。主イエスの戦いは、わたしたち人間に代わっての戦いでありました。したがって、彼の勝利はわたしたちに代わっての勝利です。その意味で、主イエスこそ「平和のチャンピオン」であったと言えましょう。これ以上、語ることは致しませんが、坂田先生が「人になれ 奉仕せよ」の言葉とを関連付けて「君たち、平和のチャンピオンたれ」と語られた言葉は、わたしたちに、生きる勇気と、心の平安と、前向きに歩む力を与えてくれる素晴らしい言葉であったといまさらのように感じております。さらには、昨今の時代状況を見る時、キリスト教教育の根幹として、平和教育を位置付けることの重要性を痛感しています。その意味において、主イエスの語られた言葉、「平和を実現する人は幸いである(マタイ福音書5:9)」との言葉を味わい、わたしたちの行うキリスト教教育が、校訓「人になれ 奉仕せよ」の具現化として、「平和を創出する人間」を育て養うものとなることを願いつつ、創立141周年記念のお話しを終わりたいと思います。