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学院長メッセージ Part Ⅲ 「いま考えるべきことを忘れまい」

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴う自宅待機は、心静かにこれからの事柄を考えるひとときになりました。今回は、学院長メッセージの最終編として、三つの聖書箇所を紐解きながら、今後の私たちの在り方について考えてみたいと思います。第一のこととして、コロナの原因、その責任は究極的にはわれわれ人間にあるということです。イタリアの新進気鋭作家パジョロ・ジョルダーノが今年2月末、イタリアでコロナ感染者が出始めた頃から数週間に亘り、外出制限下でつづった27編のエッセイ集『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳、早川書房、2020年4月20日)は、コロナ禍のあと、人間が忘れてならないこと、大切にすべきことについて示唆を与えてくれる好著です。ジョルダーノ氏は、トリノ大学で素粒子研究における理論物理学で博士号を取得した異色の作家ですが、彼は、本著において、コロナの最終責任をアジア人に課そうとするような狭隘な論説を退け、「どうしても犯人の名を挙げろと言うのならば、すべて僕たちのせいだ。『僕たち』、つまり全人類のせいだ」と語り、さらに「僕は忘れたくない。今回のパンデミックのそもそもの原因が秘密の軍事実験などではなく、自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそあることを…」と語っていることに注目すると共に、旧約聖書ホセア書に記された以下の言葉に目を止めたいと思います、「イスラエルの人々よ、主の言葉を聞け。主はこの地に住む者と争われる。この地には真実がなく、愛情がなく、また神を知ることもないからである。ただ呪いと、偽りと、人殺しと、盗みと、姦淫することのみで、人々は皆荒れ狂い、殺害に殺害が続いている。それゆえ、この地は嘆き、これに住む者はみな、野の獣も空の鳥も共に衰え、海の魚さえも絶えはてる(口語訳4:1~3)」。これを書いたホセアは、B.C.7世紀にイスラエルで活躍した無名の預言者でしたが、その彼が今から2800年もの昔、人間社会の文化的荒廃と人心の乱れ、犯罪、邪悪との因果関係、さらにはそれと連動して自然環境が破壊され、ついには地球全体の生態系に乱れが生じることを予見していることに驚きを覚えますが、考えてみれば、これはまさに現代における世界の情勢そのものではないでしょうか。キリスト教の生態学的視点で言えば、欧米中心のキリスト教神学が、自然を支配し搾取する対象として捉える考え方を凌駕できなかったことを反省し、人間以外の生命の諸形態に対する連帯性を志向し、自然及び動植物を含むすべての生態系との「共生」を標榜することが求められているといえましょう。すなわち、これから21世紀を生きる私たちは「人間中心主義」から「生命中心主義」へと発想を転換し、神から委託された、生命圏全体の「良き管理者・奉仕者(Steward)」としての役割を再認識し、次世代との連帯的責任を果たしていく必要があるのではないでしょうか。

 この辺で、第二の聖句に移りたいと思います。前号において、ポスト・コロナの時代における指針として、ジャック・アタリ氏の「利己主義」から「利他主義」への転換こそ、人類が生き残るためのカギであるとの見解を紹介しましたが、この事柄との関連において、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい(レビ記19:18)」との聖書の言葉を学んでみましょう。これは、旧約の律法において「隣人愛の勧め」として有名な戒めですが、ここで注目したいのは「隣人を愛せよ」との言葉の前に「自分を愛するように」との言葉が置かれている点です。「自分を愛する」とは「自分が可愛い、愛おしい」ということではなく、また「自分さえ良ければ」と自分に執着する「自己愛」のことを指しているのでもありません。それならば「自分を愛する」とは、一体どのようなことを意味するのでしょうか。ここで「自分を愛する」という場合、その前提として、自分が何者であるかを知ることが大切です。16世紀のフランスの宗教改革者カルヴァンは「自分を知ること」と「神を知ること」とは表裏の事柄であると言っています。それゆえ、「自分を知る」とは「神の前にある自分を知る」ことを意味します。神の前での自分は「弱く惨めで取るに足らない者であること」に気付かされるのです。そのような者であるにもかかわらず、愛され、受け入れられ、支えられ、今日あることに気付かされるとき、はじめて、自分を受け入れること(「自己受容(Self-acceptance)」)ができ、「自分を愛すること」が可能になるのです。その時、自分を愛し、自分を掛け替えのない存在として受け入れ、大切に思うことができると共に、自分が出会い、関りを持つ隣人をも掛け替えのない存在として受け入れ、愛する者となるのです。その点において「自分を愛すること」と「隣人を愛すること」とは深い所で一つになるのです。パンデミックという危機に直面した今だからこそ、「他者のために生きる」という人間の本来的な在り方に立ち返り、自己中心的な生き方から解き放たれ、他者のために生き、他者と共に和解の道を追い求め、人類の恒久的な平和実現のために寄与する使命が私たちに求められているのではないかと思わずにはいられません。

 第三点目として、わが学院の校訓「人になれ 奉仕せよ」との関連で、主イエスが「山上の説教」で語った言葉、「何事でも人々からして欲しいと望むことは人々にもそのようにしなさい(マタイ7:12)」について学んでみましょう。この言葉は、欧米では“Golden Rule(掟の中の掟)”、日本では「黄金律」と呼ばれ、社会倫理の最高峰として多くの人々に多大な影響を与えてきました。しかし、なぜか日本人には馴染まず、「相手に良くしておけば見返りがくる」、「情けは人のためならず」等々、世渡り上手の処世訓程度に考えられてきた節があります。なぜ日本人にとって、この「黄金律」が身近な教えとして響かないのかと問えば、日本人の文化形態は、相手の出方を見てからこちらの態度を決するとか、様子見の姿勢が肝心だとか、根回しをした上で話を進める等々、総じて「受身」の形態が根強いことと関連しているように思われます。わたしは10年ほど前、大学工学部で30名ほどの学生相手に夜間の授業をしていて、「黄金律」について学生たちとデスカッションした時の事を想い起こすことができます。わたしが彼らに「君たちにとって、一人の人間として、一番人からして欲しいと願うことは何か」と尋ねました。しばしの沈黙のあと、男子学生が恥ずかしそうに「人間みな、独りぼっちじゃないですか。だから自分は、人に受け入れて欲しい、存在を認めて欲しい、ありのままの自分を愛して欲しいと思うのではないですかね」と答えてくれました。わたしは間髪を入れずに「そうだね。人間みな独りぼっちだから、自分を受け入れて欲しい、自分の存在を認めて欲しい、ありのままの自分を愛して欲しいと願っている。きっと主イエスは人間誰しもが持つ潜在的・究極的願望に共感し、それならば、あなたの方から進んでいって、あの人、この人を受け入れ、その存在を認め、ありのままを愛しなさいと語っている。…主イエスの説く愛のわざとは、相手の出方でどうこうせずに、自発的に愛のわざを実践しようとする姿勢を言わんとしているのかもしれないね」と語り、さらに「自分の思いですぐ行動に出る前に、相手が何を欲しているのか、欲していないのかを見抜く洞察力とそれを感じ取る感性を磨くことの大切さを示唆しているのではないか」と語りました。するともう一人の学生が「黄金律と校訓『人になれ 奉仕せよ』とは深い所で繋がるのではないでしょうか」と語り、わたしの20年間の教師生活の中でも忘れられぬ授業となりました。

 関東学院は、今年で創立136周年を迎えますが、時代が変わろうとも、いや逆に、コロナ禍のような事態に遭遇しようとも、変わることのないキリスト教の普遍的な真理、価値観、人間観を、これからも内外に発信する学院であり続けたいと願っています。皆さま、お一人お一人の上に、主の変わらぬ守りと祝福がありますように、心からお祈りいたします。

2020年7月3日
関東学院 学院長 松田 和憲

投稿日時:2020-7-3 11:00:00