関東学院学報 No.42
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KANTO GAKUIN NEWS No.42 1 未曾有の被害をもたらした東日本大震災から半年が経過した。しかし今なお被災者の困難は続いている。また併発した原発事故によって、私たちの生活の場と自然が汚染され、恐れと不安が増し加わっている。関東学院の在校生や同窓生の中にも災害に遭われた方々が多数居られることを聞き、心を痛めている。天てんけんろん譴論と賀川豊彦 先日「平和を実現するキリスト者ネットニュースレター」二八号が送られてきた。戒かいのうのぶお能信生師は、わが国のプロテスタント各教派に社会委員会が発足した契機に関し、それは、「一九二三年の関東大震災がきっかけでした。・・・大災害で苦しむ人々のために教会がなし得ることを求めて、それぞれの教派に社会委員会が生まれたのです。」と説明している。そして今回の東日本大震災の被災者たちを覚えながら、賀川豊彦師のことにふれ、関東大震災の直後、彼が活動の場所をそれまでの神戸から東京に移し、いち早く被災者救援活動を開始。その具体的な活動を通して、「東京、横浜の災害が、彼地商人の堕落、貴族社会の腐敗の為なりとして之を当然の報償とする事は、飛んでもない誤謬であることを知らねばならない。事実そうした批判をする事は人間の職分ではない。神のみの判断し給ふ処である。…然うだ。我等は友人の苦難に直面する時、之を糾弾するよりも、先づ之を憐む事だ。ヨブの膿うみを拭ふてやる事だ。…人間の仕事は、互助であって断案ではない。我等は人の苦難に面する時、之に対して断案を下す前に、先づ最善の努力をして苦難の排除に当たらねばならない。」と、当時巷で流行していた天譴論を、賀川師が激しく批判したことを指摘する。つまり彼は、最も被災の大きかった東京の下町・本所の地に大きなテントを張り出し、炊き出しをし、診療所を開き、無料宿泊所を設け、託児所を開設し、質庫信用組合を設立するという具合に、具体的な救援活動を展開したのである。更に、震災の翌年、一九二四年八月に発行された『雲の柱』八月号では、「この夏はまた大勢のボランチャーが助けてくれるそうですから今から楽しみにして居ります。」と、ボランティアについても言及している。明治三陸地震津波とA・A・ベンネット 今回の大惨事の報に触れ、また賀川師の言葉を読みながら、一つのことを思い起こした。それは、学院第一の源流である「横浜バプテスト神学校」初代校長、ベンネット博士のことである。ベンネット夫人の手になる小伝(多田貞三訳)には、おおよそ次のようにある。一八九六年六月、三陸沿岸に大きな津波があり、僅か一時間の間に八〇〇戸の家屋が崩壊し、二万人以上が死亡、約三千人が負傷した。横浜居留地では、被災地に救援物資を届けるため三名の宣教師を選んだ。その一人がベンネット博士であった。他の二人は長く現地に留まることが出来ず、残る仕事は全て彼の肩に懸かっていた。彼に託された義援金は数千ドルに上った。彼のメモには「物資の購入は委員会で決め、漁網用麻、コンデンス・ミルク、布団、漁船等。配布の仕事は自分に任せられた」等々、その活動は具体的に記されている。また、Japan Mail紙にも、「東北地方の被災者ばかりでなく、東京及び横浜在留の外国人からも、彼らの送った慈善的援助物資をまことに行届いた配慮を以て配布してくれた」と評され、日本帝国政府からは、博士の献身的奉仕に対し金杯が贈られた(ブラウン大所蔵)。 博士のこのような姿を見てきた人々は、横浜外国人墓地にある彼の墓石に〝He lived to serve〞(彼は奉仕のために生きた)と刻んだ。後に学院でも教鞭をとった藤本伝吉氏は、彼を想い、「神の人よ」と題する讃美歌二一三番を作曲している。坂田祐院長は、建学者達のこの様な志を受け、「人になれ 奉仕せよ」の言葉をもって関東学院の校訓とした。そして私たちも、今、この関東学院の伝統の内に、この同じ志の下に協働し、今回の大震災に対しても最大限の支援活動を進めて行きたいと考東日本大震災支援と関東学院の教育Greeting◉関東学院 学院長 森島牧人Makito Morishima

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