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関東学院第3の源流

私立中学関東学院

関東学院第3の源流 私立中学関東学院

関東学院の長い歴史の中で、1919(大正8)年は大きな意味を持つ年となりました。この年の1月27日、関東学院は横浜開港記念会館で設立披露会を開き、チャールズ・ B・ テンネーを設立者、坂田祐を初代院長とする、男子のキリスト教教育に特化した学校を再び横浜に開校しました。これが第3の源流であり、「関東学院」の名が誕生した瞬間でもあります。

関東学院が横浜に中学部を開校する少し前、明治政府は「文部省訓令第一二号」を発令し、教育勅語による日本国民への精神教育の徹底を図るため、認可校での宗教教育を完全に規制しました。しかしそのような中、関東学院はキリスト教を土台とする教育を貫き、認可校の特権を敢えて棄て、校名を「私立中学関東学院」として開校しました。

写真は、関東学院として初めて建造した寄宿舎です。

チャールズ・B・テンネー(東京学院長/関東学院設立者)

チャールズ・ B・テンネー Charles Buckley Tenny(1871~1936)は、1900(明治33)年にアメリカ・バプテスト・ミッショナリー・ユニオン派遣の宣教師として来日し、1908(明治41)年には横浜バプテスト神学校の教授に。その後日本バプテスト神学校校長や、関東学院の第二の源流である東京学院長を歴任しました。

東京学院理事長在任時の1919(大正8)年、学院の発展のために東京学院の中学部を閉校。横浜に私立中学関東学院を設立し、理事長に就任しました。テンネーは中学関東学院の設立者・理事長として学校の方針を「日本人を教育する日本の学校」と掲げ、坂田祐を院長に任命しました。関東大震災で崩壊した校舎を再建するため坂田を伴って帰米。募金活動を行い、学院の復興を成し遂げました。

1927年(昭和2)には財団法人関東学院を組織し、東京学院の高等学部(社会事業科、商科)、神学部を関東学院に移管、院長に就任しました。中学関東学院も学院の組織に入り、中学部と改称しました。その後テンネーは激務のため健康を害し、1930(昭和5)年に帰米、1936(昭和11)年に召天しました。

テンネーは、優れた教育者で、有能な教育行政家でもありました。同時に芸術家としての素質もあり、オルガンの演奏や、作詞など、多方面にわたって才能を発揮しました。関東学院のカレッジ・ソングは彼の作詞・作曲によるものです。

初代学院長 坂田祐

白虎隊長日向内記の孫として秋田県毛馬内大湯に生を受けた坂田祐(1878~1969)は、経済的な事情で小学校を中退した後、不老倉鉱山で働き始めました。しかし向学心が強い坂田は鉱山での職を辞し、上京して陸軍騎兵学校を卒業、陸軍兵学校教官となります。この頃キリスト教に接し、宣教師ヘンリー・タッピング主宰のバイブルクラスに出席、四谷バプテスト教会の会員に。その後、東京学院に入学したものの、まもなく日露戦争に従軍し、戦争の悲惨さを体験。非戦主義者となって帰還しました。

キリスト教のために献身しようと決心し、東京学院で再び学んだ後に31歳で第一高等学校に入学。この時、内村鑑三の聖書研究会の会員になり、南原繁(後年の東京帝国大学総長、坂田祐著『恩寵の生涯』に序文を寄せている)等と白雨会を結成します。1915年東京帝国大学を卒業し、母校東京学院の教師となりました。1919年には中学関東学院が設立され、初代院長に。坂田は建学の精神であるキリスト教を具体的に表現するために、第一回入学式で「人になれ 奉仕せよ」と告辞し、第一回卒業式では、さらにこれを説明して、「立派な人格を備えた人になれ。吾人の徳は、奉仕によって磨かれるのである」と訓辞しました。以来50年に亘り関東学院の教育・経営に携わりました。

1952(昭和27)年に神奈川文化賞を、1965(昭和40)年には横浜文化賞を受賞。1970(昭和45)年12月16日に召天しました。現在も関東学院は同月同日に召天記念墓前礼拝を守っています。

関東学院の英語名の由来 メービー博士

1910年後半以降、米国では関東学院のことを「メービー・メモリアル・スクール」と呼んでいました。故ヘンリー・C・メービーHenry C. Mabie(1847~1918)博士を記念する名称です。アメリカ・バプテスト・ミッション・ソサエティの1919(大正8)年報告書には、メービーを記念する学校設立提案が次のとおり掲載されています。

「ヘンリー・C・メービー博士の生涯に鑑みて、博士の宣教事業への奉仕を記念する学校を開設することは、まことに適切なことである。アメリカ・バプテスト外国宣教教会理事会では横浜市にこれを開設することを決定した。(中略)横浜市内及び周辺では人口が50万を越えるが、男子のためのキリスト教教育施設が存在しない。ここは教育の機会がまことに大きい。(中略)この学校はヘンリー・C・メービー・メモリアル・スクールと呼ばれることになる。これは男子のための、キリスト教に基づく学校であり、アメリカ・バプテストの側からの国際的な友好の表現である。」

この学校が私立中学関東学院のことです。

また、戦後の関東学院復興、具体的には今日の金沢八景キャンパス土地購入資金のためにこのメービー博士の名のもとで盛んに募金活動が行われました。1945(昭和20)年、金沢八景キャンパス・校舎・施設を購入しましたが、その全資金は、アメリカ・バプテスト・ミッションから無条件で援助を受けました。ですから現在の大学、六浦中学校・高等学校、六浦小学校、六浦こども園が存在するのは、このときの土地取得があってのことと言えます。

旧中学本館(横浜市認定歴史建造物)

1929(昭和4)年に中学本館の献堂式が挙行されて以来、2008年3月までの約80年間、三春台校地(横浜市南区三春台)において校舎として使用されました。関東学院内に現存する最も古い建物であり、1992(平成4)年2月に横浜市の歴史的建造物に認定されました。

設計者はJ. H. モーガン(Morgan)。モーガン設計の建物は、横浜山手聖公会をはじめ、横浜市認定歴史的建造物に多く残されています。また、港の見える丘公園内にある「山手111番館(旧ラフィン邸)は横浜市文化財にもなっています。

横浜大空襲に耐え、長い歴史を刻み、現存しているこの建物は、関東学院史資料の最たるものと言えるでしょう。

関東学院の第3の源流記念碑

「一九一九年一月二七日、ここに私立中学関東学院が開設した。設立者はC・B・テンネー、院長は坂田祐。四月九日、第一回入学式における坂田祐の告辞『人になれ 奉仕せよ』は、関東学院の校訓として受け継がれている。」と刻まれたこの源流記念碑は、2009年に学院創立125周年記念事業として三春台校地に建てられました

「人になれ 奉仕せよ」校訓碑

校訓「人になれ 奉仕せよ」碑は、関東学院各校地にあります。

1918年、私立中学関東学院の初代院長に就任した坂田祐は、その第1回入学の式辞の中で、キリスト教の精神をもって建学の精神とすることを宣言しました。そして、これを具体的に表現するために「人になれ 奉仕せよ」という言葉を掲げました。これが、今日まで学院各校の校訓として受け継がれています。

この言葉について坂田は次のように述べています。
「人になれ……これは私が祈って神から示された言葉であった。諸子は将来学者になり、教育家となり、実業家となり、……政治家になるであろうが、何者かになる前に先ず人にならなければならない。……奉仕せよ……(これは)人のために、社会のために、国のために、人類のために奉仕することである。……キリスト教の教訓をもって人たるの人格をみがき、キリストの愛の精神をもって奉仕することである。」

また、第1回卒業式の式辞の中では次のように説いています。
「人になること即ち人格を完成することはいかに難しいかなである。しかし、実現が極めて困難であっても、それに向かってなされる不断の努力そのものが価値あるのである。……人になれということと、奉仕せよということは離すべからざることで吾人の徳は奉仕によって磨かれるのである。……これは学院の存在する限り主張されるべきものである」(坂田祐著『新編 恩寵の生涯』より)

「人になれ 奉仕せよ」に続く大切な言葉

校訓「人になれ 奉仕せよ」が語る、共生社会に貢献できる人を実現する教育が、関東学院の大きな使命です。この意味するところを理解する上で、坂田祐自らが、校訓にさらに「その土台は、イエス・キリスト也」という言葉を付け加えていることは注目に値するものです。ここに、彼が「私立中学関東学院」という名称に敢えてこだわった理由を見出せるからです。これは、東京中学院初代院長の渡瀬寅次郎が聴いたクラーク博士の言葉、「少年よ、大志を抱け」にも通じるところがあります。クラーク博士の “Boys, be ambitious”には、実は言葉がまだ続いています。その意味するところは、まさに博士の決別の言葉の中にあったと伝えられている“in Christ”です。「イエス・キリストにあって」大志を抱かなければ、本当の意味での大志とはならない、という思いが込められています。坂田は東京学院在学時代に、また一高時代の恩師内村鑑三を通し、その精神を学んでいたに違いありません。関東学院の校訓も、この“in Christ”を補ってこそ、重要な意味を持つのです。

関東学院大学初代大学長 白山源三郎

白山源三郎(1898~1985)は、神戸高商から京都帝国大学を卒業後、1927(昭和2)年に関東学院高等学部商科教授に着任、1933年高等商業部長に就任しました。1944(昭和19)年、戦時下の文部省の政策により高等商業部が明治学院に合併することになり、関東学院に高等教育機関を残すためには、工業系学部を設置する以外になく、白山は航空工業専門学校と工業学校設置のため奔走してこれを設立、初代校長になりました。

戦後、航空工業専門学校を工業専門学校に転換し、高等商業部を経済専門学校として復活。これらは学制改革により、大学工学部、経済学部となり大学発展の基礎をつくり、初代大学長に就任しました。そして白山は校訓である奉仕を実践し、校訓を実践するために教育を受けることの必要を説きました。

神戸高商時代には日本を代表する水泳選手としても国際的に活躍し、その後も役員などを務め、本学院のスポーツ振興にも意を用いました。1960(昭和35)年にローマで開催された第17回オリッピック大会役員、1964(昭和39)年の東京オリッピックでは国際水泳連盟委員を務めるなど、永年のスポーツ振興への貢献により1979(昭和54)年には神奈川文化賞を受賞しています。