関東学院からご支援のお願い
採用情報
取材・撮影のお申込み
関東学院卒業生の店舗情報サイト OliveMap
関東学院第2の源流

東京中学院(後年、東京学院と改名)

関東学院第2の源流 東京中学院

開国以来、東京築地外国人居留地には次々とミッションスクールや神学校が設立されました。バプテスト派宣教師たちは、日本人牧師養成のために神学に加え幅広い教養を身につけさせる必要を感じ、1895(明治28)年、普通教育を教授する学校を築地居留地・新栄町六丁目42・43番に設立しました。これが関東学院の第2の源流となる「東京中学院(Tokyo Baptist Academy)」です。

明治期の後半の日本政府は国家主義体制の教育を推し進めており、このようなキリスト教学校教育の苦難の時代に東京中学院は設立されたのです。校舎は一時的な仮校舎で、設立2年後の1897(明治30)年9月には台風のため校舎の屋根が吹き飛ばされ、一時隣地の他教派の神学校を借りて授業をするような状態でした。

アメリカ・バプテスト・ミッショナリー・ユニオンの海外戦況担当主事であったダンカン博士は、校地と施設を整備・拡充するための支援計画を立てていました。東京中学院の良き理解者であったダンカンは積極的な支持者でもありましたが、日本へ旅立つ直前に病に倒れ、東京中学院の新しい施設を見ることなく1898年(明治31年)に召天しました。寄宿舎が新築され所在地を築地から牛込左内町に移したのは、翌1899(明治32年)のことでした。

東京中学院初代校長 渡瀬寅次郎

札幌農学校の第一期生として初代教頭W・S・クラーク博士の教えを受け、「イエスを信ずる者の契約」に署名しクリスチャンとなった渡瀬寅次郎(1859~1926)は、。1877(明治10)年4月16日に農学校を離任するクラークを見送りに行き、クラークから直接(「少年よ、大志を抱け」)の言葉を聴いた一人です。

1887(明治20)年に水戸中学校長として在任時に、英語教師で、後に東京中学院の設立に尽力することとなるアーネスト・W・クレメントと親交を結びました。1895(明治28)年9月東京中学院の設立の際にクレメントから懇望され院長に就任。「学校は工場ではない、数よりも質である」を信条とし、少数精鋭主義による実力養成とキリスト教精神による人格教育にあたりました。

東京中学院設立者 アーネスト・W・クレメント

1890(明治23)年12月の宣教師会議。この会議で、基礎教育・普通教育のための学校を組織することが決定されました。その責任を担うことになったのが、1887(明治20)年に招聘を受けて来日し、渡瀬寅次郎校長のもとで水戸中学校の英語教師を4年間務めたアーネスト・W・クレメントErnest Wilson Clement(1860~1941)です。

学校設立準備のため1891(明治24)年に一時帰国。1894(明治27)年にアメリカ・バプテスト・ミッショナリー・ユニオンから派遣されて宣教師として再来日した翌年、東京築地の外国人居留地に東京学院を設立しました。水戸で親交を深めた渡瀬寅次郎を学院長として迎え、クレメントは教頭として実際の経営にあたることになりました。1899(明治32)年には私立学校令により設立願をヘンリー・タッピングと連名で提出。このときに東京学院と校名を改めると同時に、所在地を築地から牛込左内町に移しました。

渡瀬から引き継ぐ形で1903(明治36)年に学院長に就任したクレメントですが、学院の運営方針の転換に伴い学院長を辞した後、旧制第一高等学校(今日の東京大学教養部)の英語教師に招かれ16年間教鞭をとり、同校の新渡戸稲造と深い親交を持つこととなりました。

1897(明治30)年の台風で校舎兼宿舎の屋根が飛ばされた時には、クレメントは夜もほとんど眠らず、片手に傘、片手にランターンを持ち、親身に学生の世話をしたというエピソードが残っています。後の関東学院長、柳生直行は、「これこそまさにわが関東学院の建学の精神を象徴する」と語っています。

東京学院設立者 ヘンリー・タッピング

ヘンリー・タッピング Henry Topping(1857-1942)と夫人のジュネヴィーヴは、1895(明治28)年にアメリカ・バプテスト・ミッショナリー・ユニオン派遣宣教師として来日しました。タッピングは、東京学院の設立願に設立者としてクレメントと名を連ねています。東京中学院と東京学院の教授を務め、関東学院として再出発した時にも教鞭を執りました。温厚な人柄のゆえに「ファーザー・タッピング」として人々に尊敬されました。また、後年に中学関東学院の初代院長に就任する坂田祐をキリスト教に導いた宣教師でもあります。

1907(明治40)年、タッピング一家は岩手県盛岡に活動の場を移します。県立盛岡中学校(今日の盛岡第一高等学校)で英語教師と盛岡浸礼教会の牧師を務めていたとき、詩人・童話作家の宮沢賢治は学校で彼から英語を習い、教会ではバイブル講義を聴講しました。宮沢賢治はタッピング家族とも親交があり、盛岡城跡公園(岩手公園)内には、一家を詠んだ詩「岩手公園」の刻まれた詩碑があります。関東学院大学の横浜・金沢八景キャンパスにあるタッピング一家を記念する池の中には、2006年3月に新設された「タッピング・ポンド」銘板が立っており、そこにもこの詩が記されています。

タッピング一家は関東学院と関係が深く、ジュネヴィーヴ夫人も親日家で「マザー・タッピング」として多くの人達から慕われていました。令息ウィラードは戦前と戦後、関東学院で教壇に立ち、後年には理事も務めました。夫人エヴェリンも教授を務めました。令嬢のヘレンは日本のYWCA活動に従事し、後にキリスト教社会運動家となった賀川豊彦の秘書を務めました。賀川が世界的に有名になった蔭には、ヘレンと老タッピング夫妻の献身的な働きがあったのです。

東京学院

東京中学院は1899(明治32)年に牛込左内町に移転し、校名を東京学院と改めました。校地は市谷佐内坂の上、高台の校地は3段に分かれ、上段に校舎及び宣教師館、中段に運動場と寄宿舎、下段にテニスコートと炊事場等が設けられました。アメリカのバプテスト諸教会とダンカン博士の妹のロバート・ハリス夫人からの出資を受け、学校の敷地購入や建物の費用に当てられました。ダンカンの功績を称え、東京学院は「ダンカン・アカデミー」の英語名で呼ばれるようになりました。

関東学院第2の源流記念碑

「1895年9月10日、ここ築地居留地42、43番地で米国バプテスト伝道協会が東京中学院を設立した。関東学院教育の源流はここに発する。」と刻まれたこの源流記念碑は、2009年に学院創立125周年記念事業として東京築地に建てられました。