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2017年度関東学院大学卒業式・学位授与式 小河陽学院長祝辞(全文)

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大学卒業生そして大学院修了生のみなさん、ご卒業あるいはご修了おめでとうございます。また、本日の卒業式にご列席の保護者の皆様、ご子息ご息女のご卒業あるいはご修了を心よりお祝い申し上げます。

さて、今日卒業証書ないし修了証書を手にされた皆さんは関東学院大学あるいは大学院での学びを終えて、それぞれにいよいよ社会人としての新しい人生の第一歩を踏み出そうとしておられます。卒業式が英語ではcommencementと言われること、つまり「開始、始まり」と言われることは、皆さんもご存じだと思います。今日は、これまで、責任ある一市民として社会の中で振る舞い活躍できる準備をするために、各々の家庭そして大学という、ある意味保護された空間において過ごしてこられた皆さんが、その準備を終えて、いよいよこれから社会の一員として自分自身の足で立ち、自分自身の判断と責任において自分の人生を歩み出す、その開始点であるからです。皆さんがこの準備期間に培った知識や判断力や技術などを実践において生かす社会生活がいよいよこれからスタートします。

この広大な現実社会に踏み出そうとしておられる皆さんに、人生の先輩としてお話しておきたいと思うことがあります。最近はいろいろなところで、「分かりやすさ」が強調され、高く評価されるようになっています。それは大学の授業においても皆さんが先生方に要求し、また皆さん自身の説明や返答にも期待されたことだったでしょう。事柄の原理原則を学ぶこと、理論的に学ぶことはそうでなければなりませんでした。しかし、これから皆さんが直面することになる現実とは、皆さんが教えられまた学んだ理論的な理解をはるかに超える、もっともっと複雑かつ曖昧なものの総体です。これまで皆さんが理論としてあるいは知識として大学で教えられ学んできたものは、ある意味、私が現実社会と呼ぶもの、つまりはあるがままの社会、その仕組みとかそれを動かしている諸々の要因、それらを単純化することで理解しやすくしたものです。事柄を「分かりやすくする」ということは、しばしば、それを「単純化する」ということでもあるのです。ところが、現実の社会はそうした単純化を拒絶する、それゆえ正しい理解、正しい答えなどそう簡単には分からない複雑さの連続です。しかも、正しい答えを教えてくれる先生はもはやおりません。

さらに、現実の社会が複雑であるだけではありません。その中で皆さん自身がどのように生きれば正しく実りある生き方になるのか、これはもう誰にも分かりません。それは皆さん自身が自分の力で理解し決めていかなければならないのです。とくに、集団に同調するよう仕向ける圧力が強い 日本の社会においては、ひたすら「空気を読む」ことに気を取られて、「主体性を喪失して周囲に迎合してしまう」ことのないように、「ゴーイング・マイウェイ」を口ずさむようであって欲しいと思います。

「我が道を行く」ことは、どんな事態、どんな状況においても「自分で考え、自分で判断する」ことなしにはできません。皆さんは大学において、また大学院において、「考えること」を学んできました。社会に出てからも、その「考える」姿勢を保ち続けてください。かつて日本を悲惨のどん底に追い込み、日本の歴史上未曾有の苦難と悲惨をもたらし,300万人もの死者を出した先の戦争は、まさに日本国民全体が主体性を喪失し周囲に迎合してしまったことで行き着いた結果であったと言えます。20世紀の優れた政治思想史家であった丸山真男氏は戦争責任を裁く「東京裁判」の記録を分析して、当時の指導者たちが「自分はただ,時流に乗り、周囲の考えに合わせただけ」と言い訳するのを指摘しました。「時の勢い」、「世間の趨勢」に従うことで、自分の思考を停止させてしまったのです。それは日本に限りません。ハンナ・アーレントというユダヤ人政治哲学者が、ドイツ・ナチズムが行った600万人にものぼるユダヤ人大虐殺に、中間管理職として忠実に任務を遂行したアイヒマンの裁判を傍聴してまとめた『エルサレムのアイヒマン』という書物の中で指摘した事実も、まさしくこの人物に見られる「思考の停止」でした。アイヒマンは自分の行為について、「自分の行為は当時の思想の流れに乗っただけであって、他の多くの人たちと同じことをしたにすぎない」と弁明しました。ユダヤ民族大虐殺の暴挙を担った人たちは「極悪非道の大悪人」というのではなく「凡庸な悪人」であり、「人道に反する罪」とまで断罪された巨悪も、その本質は、疑うことをせずにナチ・イデオロギーに同調し、自分で思考し判断することを停止してしまったことに起因した「凡庸な悪」であった、というわけです。それゆえ、「悪の凡庸さ」は、私たちのような平凡な人間の誰もが、「考えること」を放棄したときには、同じような,取り返しのつかない大きな過ちに陥る可能性のあることに気づかせてくれます。

皆さんは決して「考えること」から卒業しないでください。自分の行為や行動を考えること、そのためには、自分の中にもう一人の自分を意識すること、自分の中に、自分の行為を観察しているもう一人の自分の目を持つことが大切なのだということを忘れないでください。

それが、「良心」と呼ばれるものの本来の意味するところです。「良心」とは日本語では「良い心」と書くのですが、英語ではconscience に対応します。この単語はラテン語のconscientiaに由来しますが、conscientiaという単語はおそらく古代ギリシア語「シュネイデーシス」の借用翻訳語で、「共に」と「知識」の組み合わせからなり「共有する知識」を意味します。根底にある意味は「共に知る」ということであり、自分の行為についての知を共有するものが存在すること、つまり、自分の中に自分を見つめているもう一人の自分を存在させる、そのことが「良心」が本来意味する事柄なのです。行為する自分自身とは違った、それを観察するもう一人別の自分を存在させる、それは実際には、自分の行うことを常に自分自身が吟味すること、あるいは吟味しつつ行為することに他なりません。

これから皆さんを待ち受けている社会は、自由市場経済の世界です。それは単純化して表現すれば、人間の自由に任された競争社会という側面を持っています。昨今の「グローバル化」という現象はその競争をますます熾烈なものにしています。そのような社会は私たちを追い立てるような精神状況に追い込み、私たちから考える時間の余裕を奪いがちです。だからこそ、皆さんは思考を停止させるようなことのないよう、絶えず、自分の中に存在するもう一人の自分と対話しながらこの変化めまぐるしい社会を生き抜いてください。

それでは卒業生そして修了生の皆さん、勇気を持って新しい生活に向かって元気よく一歩を踏み出してください。これからの人生の中で皆さんお一人お一人がそれぞれにふさわしい仕方で皆さんの新しい可能性をうち開いて行かれるように、心からエールを送りたいと思います。

最後に、今一度、ご卒業おめでとうございます。

学校法人関東学院 学院長 小河陽

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