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2017年度関東学院大学入学式 小河陽学院長祝辞(全文)

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新入生の皆さん、関東学院大学、大学院へのご入学おめでとうございます。また本日ご列席の保護者、ご家族の皆様、ご子息ご令嬢のご入学おめでとうございます。

さて、新入生の皆さん、皆さんが入学された関東学院大学は今年創立133周年を迎える長い伝統を持った学校です。私立学校はそれぞれ独自の教育の理念を持って建てられていて、それを建学の理念と呼びますが、関東学院のそれは「キリスト教に基づく学校教育」です。130年余という長い歴史を通して、関東学院はキリスト教精神に基づいて教育を行う学園であろうとする姿勢を貫いて、毎年新入生を迎え、この教育を習得した若者たちを卒業生として世に送り出してきました。

キリスト教精神に基づく教育と言っても、高等教育の場である関東学院大学は、キリスト教信徒をつくることを目的とはしていません。これから皆さん一人ひとりは、学生としての生活の中で様々な人と出会い、また様々な考え方に出会うだろうと思います。まさに多様な文化や思想や価値観が行き交うところが大学なのであり、キリスト教もそのひとつにすぎません。皆さんは大学においてそれぞれ異なる専門分野で異なる知識や情報に接して、それらを習熟することになると思います。皆さんにはそうした知識・情報、知恵をいっぱいに身につける、そのことが期待されているのです。現代の社会に通用するだけの有効な知恵と知識を備えた人間を作り上げる、それが大学というところに期待された基本的使命であることは他の大学と全く変わりはありません。そして、このように多様な文化、多様な思想や価値観が行き交う大学において、大学が本来的に持っている自由と自立の姿勢をもってそれらの知識や知恵を貪欲に学び取っていくことに対して、キリスト教は何らそれを束縛し、規制しようとするものではありません。ましてや特定のキリスト教的立場だとか価値観を強制するものでは決してありません。むしろ、キリスト教に本質的なものは、人間をあらゆる束縛から解放して、自由な主体、自由な人間として真理を探求することのできるように導こうとするものです。皆さんは束縛と聞けば自分の自由を奪っている自分の外にあるものを考えるでしょう。しかし、本当の自由を獲得するために格闘しなければならないのは、自分自身に固執することです。それを自己愛と呼ぼうが、あるいは利己心と呼ぼうが、自分自身に固執することから自由になってこそ、人間は本当に自由な主体として自分を取り巻く世界との交渉が可能になります。キリスト教精神が呼び掛ける自由とは、そのような意味を含んだ「真理は汝らを自由にする」という主張であり、その精神は真理への畏敬の念に導かれた、真理探究のために我執=自分自身へのこだわりを放棄する謙虚な姿勢にあります。

皆さんがこれから私たちの関東学院大学の専門教育において学ぶものは、私たちの時代と社会が現に機能している様々な概念や価値であり、それゆえ、私たちが社会の中で充実した生活を送ろうとするなら、知っておかなければならない、また修得しておかなければならない、様々な理念や考え、知識や技術を学ぶのです。ひと言で言えば、自然の世界や人間社会の仕組みについての正しい知識と情報を習得することが求められているのです。現代の社会においては、日常的会話の中で、世界のグローバル化という言葉を聞くことが多くなりました。世界がグローバル化していく現代の情況の中では、私たちが修得すべき、そうした知識や情報の世界が夥しいまでに拡大するということなのですが、それだけではありません。皆さんは20世紀に先進的な取り組みとして語られた国際化と現在耳にすることの多いグローバル化の違いを考えたことがおありでしょうか?「国際的」とはインターナショナルの訳語です。この言葉はネイション=国家という単位の存在を前提して、国家間の緊密な絆や関係性を重視する考え方です。それに対して、グローバルとは地球がひとつの単位となり、国家の単位は消滅している考え方です。私たちが生きる社会生活のあり方はますます複雑多様になり、価値観も世界観も複雑多様になっていくのですが、国と国を、その国民と国民を別の物と区切っていた境界線がなくなって、ということなのです。現代の国家は民族や文化の単位となっていることが普通ですから、グローバルな社会とは多様な民族や文化が境界線なしに混在し競合するような社会がやってくるということを意味します。それだからこそ、伝統的な民族とか伝統的文化を意識したときには反動や反撥を呼び起こすのでしょう。英国のEU離脱や米国のトランプ現象はそうしたグローバル化への反動と言えます。しかし、現代ほど高度に発達した交通手段や通信手段を持つ世界において、地球の一体化はもはや避けることのできない動きであると思います。皆さんは多様な価値、多様な文化、多様な考え方等々が混在する多元的な世界の中で、色々な人や文化と肩を並べて、その中で皆さんの居場所を見つけて行かなければなりません。そのために求められているのは、つまり、グローバルな世界で活躍するために求められているのは、多種多様な物の見方考え方を正当に評価する能力を磨くこと、1つのものを様々な角度から、様々な観点から見ることのできる能力を磨くことです。そのために、大学では専門分野の学びだけでなくて、共通科目として、あるいは学部横断で学べる科目として、多様な分野の知識や情報が提供されているのです。自分は専門分野の専門知識にだけ通じれば、自分が生きてゆく道を充分に切り開くことができると考えてはいけません。様々な物の見方・考え方を学び取る必要があり、そしてそのためには、本当に真面目に熱心になって取り組まなければ、到底習得しきれないだけの学びが皆さんを待っています。

とは言え、それら多様な科目は専門的な学びに進むための基礎的教養というのではありません。人間が社会の中で有意義な生活を築くためには、如何に沢山の知識であっても、それがばらばらのままに積み重ねられたものであって良いわけではありません。ばらばらの知識や洞察が相互に関係なくばらばらに存在している、それだけでは私たちにとって、また社会にとって、有効な知識や技術にはなりません。それらの根底には、それらを意味あるひとつのものに統合する原理、1つの価値にまとめ上げるための規範が必要です。それがなければ如何に優れた知識や技術であっても断片的なものに留まって、物事の全体を把握することに役立たないのです。「専門馬鹿」という言葉がありますが、皆さんには「専門馬鹿」にはなっていただきたくはありません。先ほど述べた多元的な世界と関連づけて説明しますと、多種多様な物の見方を正当に評価しながらも、なおもそれらを全体像へとまとめ上げる自分自身の考え方を築き上げることも忘れないでいただきたい、ということです。

ここで、これからの皆さんの学びの中で絶えず思い出し、問い続けていただきたい問いについて述べたいのですが「はたして、あらゆる学問知を統合するような、そうした規範は科学や技術の知識自体が与えてくれるのだろうか」という問いです。私個人としては、そのような統合力は私たちのあらゆる知識を相対化できる視座を持たねばならず、そのことは人文学や社会学の知識さえもが十分には機能しないのではないか、それは宗教と呼ばれるような、自分の存在を賭けた思想が提供するものとなるのではないか、そう考えています。近代の科学と学問を推進してきた精神は合理的な論理思考と分析的思考でした。それゆえ、近代の科学と学問は進歩発達すればするだけ、それは専門化と細分化の道を進みました。他方で、論理的分析的な思考訓練が研ぎ澄まされるだけ、部分をまとめ上げて全体像を作り上げる統合力は削がれて失われていったように思います。私たちのごくありふれた日常生活でさえ、科学技術も経済も政治も芸術も、多種多様なものが渾然一体となっている世界です。それらが統合されることなしに、私たちは意味ある毎日を送ることがはたして可能なのでしょうか?

私が皆さんに申し上げたいことは、人として生きる上で根源的な問いを問うことを忘れないでいただきたい、ということです。関東学院が掲げるキリスト教の精神に基づく教育理念とは、自然と社会のありようについて、事実を解明するにとどまらず、解明された事実の意味を探究する、そしてそれを人間や社会のために生かそうとする姿勢が大切だ、という考えに立脚して、本学院での学びにおいて、今私が皆さんに投げ掛けたような問いを大学での学びの中で真剣に受けとめて欲しいというものです。そのために、教育の場においてキリスト教的価値があけっぴろげに語られる、あるいはどういう人間になろうとして教育・研究に携わっているのかという問いが絶えずおおっぴらに投げかけられる、あるいはそうした問いかけがなされることが確保されている、そういう教育を営むことが大切だと考えられているということなのです。キリスト教の精神に基づく教育は、キリスト教からの問い掛け、チャレンジを受けて、新しい観点から人間や世界を洞察することを促すものなのです。キリスト教的な考え方、価値観、規範が提示されることは、あくまでそこからの問い掛け、挑戦を受けて、皆さんが教場で学び知る複雑で多種多様な知識や価値を前にして、それらとどのように関わり、それらをどのように選びとって自分のものとする決断をするのか、そのような問題を自分で考え、自分なりの価値観、世界観、人生観を作り上げていってほしい、そのための時間も意識して持って欲しいとの願いがあります。もちろん、そうした問いかけや促しを受けとめることは強制的ではなく皆さんの自由に委ねられています。皆さんはそうした問い掛けに肯定的に、あるいは批判的に応答することを通して、自分という人格を形づくっていただきたい。「人になれ 奉仕せよ」という関東学院の校訓は、関東学院初代院長・坂田祐先生がそのようなキリスト教精神を具体的な形で表現したものであって、坂田先生はこの言葉のあとに『その土台はイエス・キリスト也」を付け加えました。このように、皆さんの人生設計にとって大切な問いの探求の助けになればと、今日は新約聖書がその他の印刷物と共に皆さんさんに配布されています。この新約聖書は皆さんが時間のあるときいつでも自由に読んでいただきたいのですが、必修あるいは選択必修科目などの形で準備された「キリスト教科目」を履修する際にはテキストとして用いられますので、大切に扱ってください。

皆さんは「文化」がヨーロッパ語でcultureと言われることをご存知でしょう。この言葉の語源はラテン語のcultus/ cultura、その動詞形coloに遡ります。その意味は単純に、「耕す」、「耕作する」というものです。文化とか教養とか言われるもの、それは人が額に汗して土を耕す、その結果として実るものに他ならない、という意識がそこには込められています。人間の知的な営みとしての文化の習得、それは人が額に汗して、こつこつと地道な努力を続けなければ実を結ばないものだ、ということです。世界を驚かせるような発明や発見はその背後に寝食を忘れて打ち込むような、熱情に溢れた、でも地道な努力の積み重ねがあったことを忘れてはならないと思います。皆さんも本学での4年間をそのように額に汗して地道に土を耕すような作業を通して、皆さん自身が収穫する果実を育て上げてください。そのようにして得られたものこそが、皆さんの教養となり、文化的素養となり、そして、新しいものを生み出していく創造力となるのです。

それでは皆さん、これから共に一生懸命にそれぞれの目標に向かって前進いたしましょう。

学校法人関東学院 学院長 小河陽

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